日本の家屋を考える場合によく持ち出されるのが、今から675年前の鎌倉時代末期に吉田兼好によって書かれた「徒然草」の第五十五段です。
家の作りやうは、夏をむねとすべし。
冬は、いかなる所にも住まる。
暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。
深き水は、涼しげなし。
浅くて流れたる、遥かに涼し。
細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。
天井の高きは、冬寒く、燈暗し。
造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。
今でも自然と向き合う生活を志そうと思えば、この「徒然草」の文章から学ぶべきことは多くあると思います。「夏をむねとすべし」ということは、日の光をさえぎって風通しのよい家にしなさい、ということです。それに、浅瀬に流れる水は涼しさを演出してくれる、とも言っています。このように自然と対峙したり、それを享受したりすることは、ひとがひととして生きていく上での知恵であり喜びでもあるのです。
さて、ここでは自然の光と風について話をしましょう。
そもそも風とは、空気の物理的な運動のことをいいますが、ひとは昔から風というものを繊細に意識してきました。それはひとの思いがこもった風をあらわす美しい言葉がたくさんあるということでもわかります。たとえば、そよ風、すきま風、潮風、木枯らし、からっ風、追い風、向かい風、つむじ風等々。風
の強弱だけではなく、季節や吹く場所によっても呼び方を変えているのがわかります。また、風流、風景、風情など、風という文字は人の気持ちがそこに入っていることを表しています。多分、人の心を動かすという意味で風が使われているのだろうと思います。さて、そのひとの心にまで大きな影響を及ぼす風を、ひとが住む家屋内に気持ちよく取り込むにはどうすればいいのでしょうか。
まず、その入り口となる開口部(窓や隙間)と、それとは別に、出口となる開口部が必要になります。部屋に風を通すということは、単に新鮮な空気を取り入れて汚れた空気を外に出すという換気のはたらきだけでなく、気流が身体からの熱の放散を促進し、涼しくて爽やかな居住環境をつくるということに大き
な意味を持ちます。この場合、大きな開口部をとって大量の風を取り入れることよりも、むしろ風の流速と流路が重要になるのです。流路は、風の入り口よりも出口の位置に大きく支配されます。床面に接した小さな地窓が、思いのほか通風に効果をあらわすのはこのためです。ところで、人工的な送風機がつくる風よりも、窓から入る自然の風のほうが、新鮮で爽やかな気分にさせてくれます。同じ風でも、前者は
current、後者は breeze と英語でも区別しているほどですから、人間共通の感覚なのでしょう。
自然光を取り入れるということは、家の周囲に大きな空地がある場合や、昔のように高層の建物がないという状況下では、さほど問題にはなりません。この場合は、軒を大きく出したりして光をさえぎることの方が大切になります。しかし、「うなぎの寝床」といわれる間口が狭く、奥行きのある昔の町屋などは、今のわたしたちと同じ問題をかかえていました。道、あるいは大きな空地に面していない部屋に、どのようにして光や風を導くかという問題です。町屋の多くは中庭や裏庭をつくり、それに面した部屋には壁をほとんど設けず、障子を開け放てば自然の光や風が充分入り込むようにつくられています。庭に落葉樹木を植えれば、夏は日光をさえぎるとともに涼風を入れ、寒い冬には日が庭の奥にまで射し込み、囲われているので北風が吹き込まず、暖かい陽だまりとして居心地のいい空間をつくります。また、庭の緑は目に優しく、自然を視覚的あるいは心理的にも取り込むことになり、ときに遊びに来る小鳥やトンボが心を癒してくれたりするのは贅沢な喜びでもあります。そのように、中庭や裏庭の効用は計り知れないものがあるわけですが、今の日本、それも都市部に家を建てるとなると、その庭がなかなかとれないというのが現状です。土地の値段が高いため、限られた小さな敷地に家を建てざるを得なく、それに道路に面して駐車場を設けるとなると、残りのスペースに可能な限り部屋をとってほしいという要望がつよくなるのも理解できます。なんとか光はトップライトで対処できても、自然を家に取り込むということからは程遠い状況です。しかし、思い切って居住面積の一部を削り、自然の光や風を取り入れる庭やテラスを設けては如何でしょうか。そのようにして居住環境を向上させた方が生活に潤いを与えるだけでなく、お金や物では得られない心の安らぎを得ることができるのではないでしょうか。また、居住面積を削るということは大変つらいことですが、自分のライフスタイルを今一度見つめなおすよい機会でもあるわけです。 |