最近の凄惨な「親殺し・子殺し事件」の続報を聞くたびに、この国の治安もだけど家族の関係こそ「どうなっちゃうんだろ?」と暗い気持ちになる。その元凶を親世代である僕らや僕らの一世代前の団塊の人達の、経済優先主義に落ち着かせてしまうのもどうかと思う。教育にしたって「詰め込み受験教育」に問題がないわけがないのに「ゆとり教育」もどんづまりと言う現況を、戦後世代の誰が予想しただろうか? 公団型間取りに住み疲れた世代が夢見たのは、プライバシー確保の個室群住宅だった。でも建築学科を卒業するころには、閉じこもり症候群が問題視され子供室の悪弊が語られ始める。それもそうだと鵜呑みにして「これからの家族像」を作るのはわれわれ建築設計なのだと勘違いして、充実した団欒をイメージしたLDKを量産したけど結果的には、お互いに甘やかされた母子関係と疎外された影の薄い父親像でしか無かったみたいだ。この国の個人主義は、自己主張という悪い意味での利己主義で留まってしまって、社会性をないがしろにしてきた無宗教・無国籍の幼児化したままの集団心理しかもたない。 そして30年を経た今でも、4.5帖の子供室とも納戸とも父親の書斎とも判断のつかぬ部屋をパズルのように組み合わせている設計作業には、進歩のかけらもない。建築屋が描いた家族像はだれかの近代絵画の下書き程度で塗りつぶされて、プランはいつも使用者のエゴの為に投げ出されてしまっている。 今一度、建築屋の良心の復興を期するとすればそれは、構造偽装問題で叩かれる不条理な経済主導の根の無い社会から一歩退いて、ただ終日釣り糸を垂れる太公望の如くに自然と言う摂理に身を任せる勇気から始めなければならないのかもしれない。 しかり、これからの世代の為に自らの身を投げ打ってでも残さなければならないものがあるはずである。この慢性化した躁鬱症状の社会がもたらす事象は決して他人事ではないし、批評家みたいに笑って過ごせることではない。大人気なくとも、声を荒げて語らなくてはならない時も必要だし、個人として態度を決めなくてはならないときもある。そのとき毅然として、これからの世代の為に僕らはこう思いこうするのが正しいのだと伝えることは、建築人としての第一歩なのだと思う。