2026年に完成予定のサグラダ・ファミリアは
今の進め方で良いのか?
はかりかたというのは漢字にすると7種類はある。
図る、測る、計る、量る、謀る、諮る、察る、啇る
つまり分野に応じてのはかり方が異なるということである。
しかもその行為によってまた新たなる発見につながる。
私の場合はそのうち、図る、測る、計る、量る、察るを利用した実測作図調査を進めてきた。それで多くの知識を得てきたつもりだが、まだまだ不十分である。
理由は経済性が伴っていないという点である。
むしろ経済性を期待してこの世界に入り込むと、スタート時点でお手上げとなるはずである。私の研究というのは、今までもそうであったように誰も理解してくれない。そのための資金も、得るのに通常の数倍もの知恵が必要になってきた。
このようなことは、偶然にして誰もが突き当る問題かもしれない。
一見、厄介な問題と思いがちだがそうとも言い切れない。難問に突き当ると通常なら回避するか、それを回避せず正面から対峙してその乗り越えることに従事することのどちらかである。それで何が起きるだろう。想像するだけでも興味が湧いてくる。つまりそれまで知られていなかったことが徐々に見えるようになるということである。
例えば目の前には地平線や水辺だけしか見えないとする。
でもその水平線の向こうには素晴らしい世界があると言われている。
条件として、そこへは歩いて行く手段しかないという。そこでどれだけの人が歩いて進むだろうか。多くの人は歩いては行きたがらないのが通常である。つまり楽な手段を選ぼうとするからである。
ガウディの会話の中に「忍耐」と「繰り替えし」という言葉を残している。目的に向かって行動するには、私はこの二つの言葉だけで十分にカバーできることを経験してきた。
彼もサグラダ・ファミリア教会の計画施工に43年の期間を費やした。そこでは資金繰りも大変であったことが洞察できる。彼のこの言葉がなければ現在のサクラダ・ファミリア教会の存在はなかったと言える。
計画の壮大さは私が説明することもないが、彼の夢がそれ以上に大きく尊大であったことに気がつく。
この計画への思いは、従来のゴシック建築にかかった期間を考慮した上で、次世代への継承として歴史や地域性、そして「より完成度の高いゴシック建築へ」という希求がその最先端の創作性と技術・科学を利用することを示唆している。しかも半永久的に作り続けるという姿勢が教会への思いとなっており、そのラインで今の建築現場となっていると思っていた。ところが最近では、2026年にこの教会を完成させるという予定で急速の施工進行が見られる。
その施工状況が読み取れる中で、現在の施行が果たしてガウディの計画していた姿に沿っているかどうかということはまた別問題になっているような気がして開いた口が塞がらない。
1984年に初めて大ガウディ展示会があった。その時のシンポジュームでも、ある建築家は「現状の部分と現在の施工状況は明確にさせるべきではないだろうか」という提案をしていた。つまり時代のスタイルがあって良いのではという提案であった。そのあり方は従来の教会でも見られている。ならばこれからもその方向で計画施工がその時代の建築家の手法と施工法にしたがっても良いことになる。そこでその時代の「マーキング」が必要になるはずである。つまり「ここまではガウディでここからは私たちの部分」というようなことになるかと思う。それが今では曖昧となっている。 |