「徳」を得てガウディが成熟した6年
ガウディは、日記の中で芸術について「芸術の閃きは望み次第で永遠となる。それが崇高であればあるほど、より力を持ちその効果を増す」と記している。ガウディにとって建築とは芸術性の高い作品であり、その為に入念な配慮とより自然な処理の仕方を隅々で見せている。
そして「宗教に関してはその芸術性がより高くなり、全てを必要とする」とまで記しているが、これは教会建築計画での考察である。
ガウディが考える教会というのは、庶民の為の集合場所でありシンボルでもある。その存在感を強調する為に、最も優れた総合芸術が必要となるという意味を含んでいる。
ガウディは後に「建築様式の統一性」を唱えることで、シンプルなスタイルを希求することを真理とする、美の理念を貫徹することになる。
それに合わせるかのように、少なくとも成熟期のガウディの言葉に「徳性」を示唆することが多い。それは宗教建築に関わることでそうなるのか、それとも彼自身の性格によるものなのか考えさせられる。
ガウディの残した大学生時代の日誌では、考察・理論などが修辞学的に記されている。それは、彼のバイト先での計画で師匠達と触れながら、または施主達との接触から生まれ、書き残したメモなのだろうか?
いずれにしても、その根底にあるのは建築をする為の論理が、学生時代の図書館通いに起因しているということだ。それは建築家としての論理組み立ての準備で歴史的建造物を対象に考察をしているということになる。
しかしそれとは別の、人間の徳性に関しては、幼少からの両親の躾による言葉はまだ見つからず、彼の残した日記と後のラフォルス、ホワン・ベルゴス、セサール・マルティネール、ホワン・マルマタマラ達が残した会話集からも今のところそれらに関連する会話も見当たらない。
私がこの徳性を気にするのは、ガウディの人間性がどのように建築に作用しているのか知りたくて今までその謎を追いかけてきたからなのだが。
ガウディの学生時代から建築家になるまでの1873年から1879年の日誌では、そのような言葉が見つかりにくい。
それよりもむしろ、人間としての成長期に建築論に拘っているのは自然のこととして、やはり成熟期に至らなければ人生も含めた見方とそのあり方が見えないということなのか。
テレサ学院で1889年、彼はエンリケ・デ・オッソ神父に
「貴方は本業を果たしてください。私は自分の本業をまっとうしましょう。そして良い作品を作りましょう」という言葉を残せる自信はどこに由来するのだろうか?
彼は1883年からサグラダ・ファミリア教会に主任建築家として教会建築を任されている。当時は31歳。そしてテレサ学院を計画する1889年では37歳である。
その6年間に何が彼をそんな心境にさせたのだろうか、気になるテーマである。
そんな思いを馳せながら、私は相変わらずテレサ学院の建築詳細を眺める。
ファサード上部にある鋸朶の上の黒い神父帽子がスペイン内戦で殆ど破壊され、私は実測をしていたときにはまだ再建されていなかったのだ。
その後、尼僧のカルメさんに、私は5年がかりで完成した作図を1994年に見せると、「本部にその作図を見せて神父帽子ビレータの再建計画を提案してみたらどうだろう」と奨めてくれた。しかし、なぜかその気にはならなかった。
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