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実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

原子力もITも、信頼するには歴史が浅すぎる

1900年に入ってからガウディの作品は変貌しはじめる。
「トランスフォメーション」というと最近の映画のサイエンス・フィクションだが、そのような変貌の仕方ではない。ガウディの建築は人間臭い現実社会での変身をはかっている。歴史的建造物からの脱皮という方向性を検討する。コロニア・グエル教会地下聖堂はその要因となっている。さらにそれを踏み台にしてサグラダ・ファミリア教会に移行するということになる。グエル公園は、変身中の成熟期に現実化された作品である。だからミステリーゾーンを沢山残してくれている。
そのミステリー・ゾ?ンの中でもXファイルに近いところが幾つか考えられる。どうしてそんなミステリアスな部分を作品の中に残したのだろうか?

そこでガウディの建築言語を見る。そこには私達に「考えろ」と言わんばかりのガウディメッセージが盛りだくさんである。ガウディは「その理由が解ったならそれは公言しない方が良い」としている。どうしてだろうか?
つまりその謎が解けたとしても、それは時間の流れもあって既に過去のこと。これが正しいというのはだれが言えるのだろうかという事であり、その作品を作った本人でない限りその本意は解らないからである。
歴史もやはり小説の一部であり、その足跡を十分に科学的な実証を得ながら理解した所で、所詮は小説でしかありえないというのが現実なのだろう。
特にガウディは「科学というのは偽金を判定するのに役立つ」と言い残している。つまりは「人間社会の都合に合わせての科学的な裏付けの手段」ということになる。

どの世界にも臨床という言葉があるが、これは実験を伴った唯物的な検証の仕方である。
歴史や考古学の世界でも同じ様に遺跡を発掘しながら、時代背景を古文書で、カーボン検査で時間経過を検証している。それもある意味では実測であり臨床ということにもなるのだろう。しかも、より正確な情報による推論なのである。歴史にも科学的データーにも許容範囲があり、どれも曖昧でまるで放射能線量の許容範囲にも似ている。
これも事がある度にその許容範囲が変わるわけだから、おかしな世の中にしているというのも現実である。ウランの発見から原子力発電までの経緯は歴史的時間の流れからすれば短時間で展開している。ウラニウムの使い方はそれだけなのだろうかと再検討する必要がある。その意味では煉瓦のように数千年かけて現在でも利用されているような状況ではない。だから原発の利用には経験が不足しているし感性も欠ける。どんな物でも人間社会で利用する「もの」というのは、「安全性が第一」である。その条件を「短時間でしかも経験乏しく、これは自然に優しくクリーン・エネルギーだ」とどうして認めることができるのだろうかということにもなる。情報文化の中で特にIT利用とその展開も同じ事。
所詮、人間達が短時間に作った加工品である。

それは便利だからといって私達は飛びついているようだが、本当にそれで良いのだろうか。ITによる社会問題が発生しているようだが、今の時点においてどうして再検討してみないのだろうか。
     
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