目指すべきは、ガウディのサグラダ・ファミリアか、
理想のゴシック建築か。
ガウディは自らも詳細な模型も作っていたことを、協力者であったホワン・マタマラが「ガウディとの道のり」の中で示している。さらに彼の生き方や人間性などもその中でほのめかしている。そこではシンプル・ライフでストイックなガウディという印象を受けるが、他の協力者との会話の中からでも伺われる。
まだまだ時代を通して建築スタイルによるバリエーションの在り方とバランスや調和も考慮しなくてはならない。ゴシック建築の期間を考えると、サグラダ・ファミリア教会の工事期間はまだ少年期といえるのかもしれない。今後、建築工事と姿勢や精神性においても、改めて注目される時期がやってくるはずだ。
ガウディの希求していた「理想的なゴシック建築」を考えるとき、今の関係者達はガウディの技法の真似をしがちであるが、実際にはそんなことがあってはならないという事を示唆していた。
確かにガウディ時代にはできるだけ多くの模型を作っていた。しかもその模型すらも完成はしていない。それはガウディの考えによる模型である。つまり後継者達は、ガウディとしてのサグラダ・ファミリア教会なのか、それとも単に「理想的なゴシック建築を目的」にするのかによって建築計画の方向が変わることを理解するべきである。
ここで「理想」の意味をもう少し考えると、「それを乗り越えるような優れた技法とスタイルを打ち出せるような創造に満ちた」計画が必要であることを示唆しているのではないだろうか。しかも従来のゴシック建築は、建築家一世代ではつくれてはいない。たとえばバルセロナ大聖堂は1058年から教会が計画され、1898年にファサードが完成する。つまり840年の間建設がつづいていた。
一人の建築家ではなく多くの建築家達が参加していた。1882年にはガウディも彼の師匠であったホワン・マルトレールと一緒に、この教会のファサード計画コンペに参加していたことからも理解できる。そのようにして何世代にもかけて計画されていた教会というのは、それなりの意味と重厚感もある。時間の流れを感じる建物とそうではない建物とはやはり経験の深さに違いがある。
例えば、デザインの世界でも時間がかけられたモノというのは、トラディショナルとしてその価値は安定している。しかし流行もの、つまり短時間でできるような工業製品というのは耐久性に違いを見せているし、使い捨てのようにして時代ごとに変わってしまう消費社会での商品デザインということで、重厚感はなくなる。
つまり、「サルの真似」のようにして如何にもガウディがしたであろうという仮定のもとで工事が進められているところに問題があるといえる。むしろ現在の建築家が、自信をもって独自のオリジナルを唱えることで、本質的なオリジナルの概念を貫徹することになるだろうし、それではじめてガウディの言わんとする本来の「理想」という概念が継承されると思う。
少なくとも最近の工事では、ガウディ時代の工事に比べて速度こそすばらしい勢いで進められている。しかし、既に新しいタイルの部分が剥がれて落下し、養生している鐘楼が目立っている。施工のミスかそれとも素材の問題かはこれからの検証に寄るところが大きい。時間をかけて検討しながら工事する意義を忘れてしまったのではないだろうかとさえおもえる。 |