それにしてもガウディ当時の作品は美しい
ガウディはサグラダ・ファミリア教会について
「贖罪は信者達を活気づける。奉仕によって悪い行いも許す寛容な心も必要である。奉仕は蓄えることはできない。良い作品を作るには適している。教会の作り方や期間を気にする者達は何も得られず、むしろ得られるものがあれば不服を言わず、得られるものがなければどうするべきかを知るべきだ。」ともいっている。
贖罪は奉仕であり献身である。ガウディは教会を献身の場として考えていたということになる。
教会の作り方に問題があればガウディと協議すれば良いだろうが、すでに彼はこの世の人ではない。教会に対するコメントについては幾つかの要因が残されている。
技術、構造、意匠、コンセプト、社会問題、宗教性、精神性、手法と様々である。
特に宗教的な面の疑問としては、教会の中での商売の有無である。
その辺りについては例え寄付と言う口実とはいえ、税務署への建前のことで宗教的にはありえないことである。聖書を覗くと、神の宿る家の前でのキリストの怒りが表現されているわけだから、内でその商売が行われているだけでも話しにならない。
それを許すぐらいならガウディも同じ事をしていただろう。ところがガウディは帽子を持って募金を集めていたという事の意義をどうして考えないのだろうかと思っている。
贖罪には謙虚さと節制という意味を含んでいる。豪華絢爛な仕上げをガウディは求めていただろうか、という事をどうして考えないのだろうか。
しかも世間に対しては2026年に完成させるとか、コンピューターではここまでできるとか、まだ工事が続いているのにも関わらずデリケートで豪華なステンド・グラスを嵌め込んだりしている。特にステンド・グラスは工事が終わる直前に入れるものである。しかも新しい部分の彫刻や装飾部分は、ガウディ当時に考えられていたものとはあまりにも違いがありすぎる。
ガウディ以上に凄い建築家がこの教会を継ぐことになれば、再度やり直しの部分が沢山でるだろう。そうなればガウディが亡くなった以後の建築詳細や彫刻が再検討される可能性もでてくる。
彫刻や装飾は取り外しが可能なので修正はしやすいが、一度建設された建築部分を解体するとなると大きな問題となる。
これも歴史の1ページとして許すか否かは世間が決める事になる。
世界は狭いようで広い、凄腕の建築家達はまだまだこの世の中には沢山いる。
我々庶民の目はだませても彼等の目はそうはいかないということを自覚する必要がある。
つまり、ガウディ当時に作られた誕生の門と地下聖堂は世界遺産に指定されたが、その後の建築部分や彫刻部分は全く関係がない。したがってその後の建築も含めて建築詳細や装飾、彫刻なども今後の庶民の厳しい審査の対象になる。審査の基準はまずガウディの言い続けている全体との調和、アイデンティティー、技術、芸術性、完成度、そして理想的ゴシック建築に相応しい意匠という内容が適応されるようになるだろう。
なにせ理想のゴシック建築を目指していたガウディなわけだから、それ以上の完成度と精度で仕上げることが目的とされていなければならない。その辺りを現在の関係者達は認識しているかどうかが問題となる。
それにしてもガウディ当時の作品は美しい。 |