自然の摂理に向かい合うような
ガウディとは対局の日本の建築美
作図をする時に考えさせられるのは、施工と作図ではどうしても違いができること。
その最大の理由は、例えば作図で納まりを描くにも線で描く。例え0.1mmの細さで線を描いたとしても現実の納まりにはクリアランスが必要なのだ。つまり部材を寸法通りに整形していっても、それを組み上げる時にクリアランスがなければ納まらないというのは事実である。
だからそのクリアランスつまり「遊び」をどれほどにするかというのは熟練した職人さんの腕にかかっている。
そこの所を無視して、例えば、10cm角のほぞ孔に10cm角の角材が納まる作図では、整形できても現場では納まらないということになる。細かな話しだが家具でも建築でも機械でも、それを組み立てる場合には図面を下にして現場でつくるという作業は、また施工用の作図も必要になるということ。だから作図をするという行為は簡単でなく、非常な時間と労力がかかる。恐らくガウディはその辺りの過程も合理化する為に、模型を重視した施工を中心としたといえる。 特に人体や他の動・植物の作図はアバウトでしかできない。
そのように装飾的な作図はとなると、全く皆無となる。ただデッサン程度はあっても、粘土や石膏で実施に至る職人の作業で十分カバーできる。そこでアーティストが登場する。 ガウディの右には模型職人であり彫刻家のジョレンツマタマラがいた。その息子ホワン・マタマラも親子代々ガウディの補助をする人達であった。
当時、彫刻家マニというのがガウディの庇護のもとにいた。 感性の鋭い彫刻家達は図面のないオブジェを作る事ができる。 まさに感性の世界である。
「芸術」と「感性」は二人三脚である。つまりガウディの論理からすると、「感性」を身につけるには「プロポーション」と「真実」を理解していなくてはならない。ものというのは形があるために、その美しさをもとめるにはプロポーションが必要となる。だから「第一にそのプロポーションを熟知しなくてはならない。そのために真実を理解しなくてはならない」とガウディは会話に残している。ではその真実とは何か?
私の場合は「人間を超越している自然界の摂理を理解する」と解釈している。
つまり人間を保護する為の器としての建築、これを安全にしかも自然の摂理にかなった形とはなんだろうかと考えることだ。
けっして平面や直線だけではないと言うことも理解できる。平面や直線は近代(人々が幾何学を利用するようになってから)のことである。自然の摂理にかなった空間や形というのは、例えばちゃわんのように手の平に優しく納まるような形の事を示す。つまり優しい空間、親しみやすい空間、違和感のない空間ということになる。動物達の世界でも彼等の作る形では、ハチの巣が代表される。ハニカムである。これも自然の摂理にかなった動物の本能で作られる形である。私は建築家になりたいと思った小学生時代から、日本の空間に非常な厳格さを感じていた。なぜこんなに四角四面の納まりや建築になるのだろう、という疑問を持ち続けていた。建築を勉強するようになってから益々、整理整頓された納まりに粋を極めえた日本建築に鳥肌が立つ。
これが「日本建築の美」として代表されてきた本当の形だろうかと考えさせられてきた。 |