街の中心をなすものとは
ガウディは日記の中で
「目的と素材の管理は、精度を高め、コントラストによって、周囲にもっと優しい形にするか、それでも駄目な場合は、躍動的、雰囲気の状態で、十分な形態として、シンプルな装飾を補助とする。形態を讃え、機械的、素材的な部分を削除し、必要性に応じて十分満足な形態となるよう、物の”性質”によって条件を与える」
として建築の目的と素材のあり方を示している。
つまりガウディの美学にはコントラストが含まれているということは後のベルゴスとの会話でも伺うことができる。
素材、形、色等、周囲との調和やコントラストが美の対象ということになる。
ここでまちづくりについて考える。
街というのは、人が集まって集落ができるところで、そこには建築、モニュメントなども含まれる。建築は住宅もあれば市場、コミュニティー、そして地域を象徴するものがあってモニュメントとなる。街の基本形態は古今東西かわらない。
まちづくりを考えると、基本形を維持するにはどうすれば良いのかということになる。そうしなければ街の核は、細胞とおなじで崩壊してしまう。
卵の黄身がないのと同じだろう。
街の核となるのは、街のアイデンティティーがそこで表現され、それ一つで地域が反映されているものである。芸術性が伴うとさらに核は輝きはじめる。
どうすればその核は輝くのか。ここに民族性が関わってくる。
唯物的か唯心的によってもその核のあり方が様々である。
実に面白いテーマである。
いずれしても住民はそれを誇りにするだろうし大切に扱うようになる。
それが宗教であればお寺は教会になったりする。
文明によってそのシンボルも変化し、街の形態も変化する。
ヨーロッパの場合は広場と教会が中心であることは、いまだに変わらない。
ところが日本では、昔の核は神社や境内であったはずが、近代では駅前が中心であった。ところが現在ではスーパーマーケットに変わっている。つまり日常生活や流通の中心が街の中心ということになる。
スペインの地方都市というのは、スーパーマーケットが最近増えてきているが、それでもスーパーを中心に街は拡張しない。つまり既設の建物の中にスーパーができるだけで街の形態には影響はしない。中でも地方都市でのスーパーはどうだろうか。それも同じようにどこかの空きテナントを利用してのスーパーマーケットということになる。駐車場を沢山とっての大型スーパーというのはまずありえない。
ところが最近大都市にはその大型スーパーが登場するようになった。そこは各種のテナントが入っているデパートにも似ている。
かといってそれで街は変わるかと言うとやはりそうでもない。つまり大型スーパーというよりショッピング・モールのようになっているだけである。
その手法は「市場のニューバージョン」とも言える。
だから地域にしっかり根づいていたもので今更街の中心がかわるというものではない。
むしろ地域の日常生活の近代化をしているだけに過ぎない。
日本には昔、廉売というショッピング・モールがあったことを想い出す。
子供にとってはそれだけでも楽しい場所である。中には駄菓子屋さんがあったり食品、果物、肉屋がずらりと並び、市場の匂いは活気と各種商品の匂いが充満していた。 |