ガウディの建築物は、装飾的か芸術的か
ガウディの日誌の中で
「形態、表面、ライン、それら全ての構成が幾何学そして美学の本質であり、それらのコントラストは、プロポ−ションの構成に役立つ。物が非常に美しくあるためには、その形には余分なものがあってはならず、単に材質による美しさは、与えられる素材によることが理解できる」
とガウディの美学を記している。
この言葉で「余分なもの」という表現は単なる飾りつけされる部分の事を示す。
ルネサンス、ゴシック、モデルニズモ等でも見られる過剰な装飾に対する示唆である。さらに地域やオーナーのアイデンティティーを建築の中で見つける事が困難であり、むしろ「無」に等しいと思うのは私だけだろうか。
つまりこの言葉からも「奇異をてらったきらびやかさを懸念していたガウディの姿」が伺える。
すると人々はエッとおどろくかもしれない。通常であればガウディの作品ほど気まぐれで過剰装飾と思っている人も少なからずいる。
しかしそれはガウディ自らの生活姿勢と芸術性、しかも作品の作り方や演出までが建築に反映しているというとどうだろうか。彼の生き様に関しては、あまりにもストイックすぎて通常の建築家では理解できない所に君臨していたようにみえる。
一方で彼は、職人達とジョークを交えた日常会話を楽しんでいたこともたしかである。リラックスした環境の中で個性を引き出そうと彼は努力し、職人さん達の好奇心をますます駆り立てるような環境づくりもしていたのではないだろうか。その意味ではどの分野でも同じ事がいえる。
会社の経営者からはじまり学校教育、または家庭においても同じような状況を想定してみる。
例えば会社であれば、社長であれば雷のような指導をする人もいるが、社員と垣根を作らず、仲間のように仕事をする人もいるだろう。
私は正月クリスマスの特別番組で恒例の、ウイーン交響楽団の演奏を見ていた。音楽が終わるか終わらないうちに指揮者は、演奏者一人一人に握手を求めて廻っていたシーンがあった。観客も朗らかになり演奏者達も嬉しそうであった。これは明らかに演奏者達との団結を意味しているのだろう。だからこそ素晴らしい音楽が聴けるのだという事を示唆しているようでもあった。
建築でも同じである。建築物は一人で施工できるものではない。複数の人達が関わって完成される。そこには調和と協調が必要である。そして一つのものをつくるという団結である。勿論施主の気持ちを含めての事である。それを無視したのでは誰の為の建築作品になるのかが解らなくなるかだ。
通常予算を設定して施工が始まると予定通りに終わるものと思っているのがオーナー達である。実際はどうだろうか。
施行中の事故、変更、予期しない出来事や納まりでどうしても予定期間ではできない事も常である。
それよりも大切な「夢の実現」であるとする建築ができるのであれば、むしろ芸術的な作品に出来上がる方がオーナーにとっても地域にとっても素晴らしい事であると思えないのだろうかと考える。
生活の中で美学の喪失ほどつまらないものはないはずだ。
魅力なく、味気ない、まるで単なる箱のような生活環境にどんな創造性を抱く事ができるのだろうか。 |