使い慣れた素材と道具を使うこと
ものづくりのその基本とは何かとよく考えさせられる。
作る目的とその用途はもちろんだが、さらにアイデンティティーというものがある。これが非常に厄介で通常抜けることが多い。つまりその前に消費社会を中心とした流通を考慮した上でのコストバランスと利益を考えることで、既製品に頼ってしまいがちである。そうなると昔からそうであったように、オーダーメードの世界から大量生産型の工業製品つまりは既製品となってしまう。
現代はまさにその社会となっている。取り残された手工芸の世界は現代社会から距離を隔てられ、ついには高価な世界という固定概念が蔓延する。
これも時代の流れというと「身も蓋もない」が、時間の流れで見るとそうでもない。必需品としての作業道具、家庭用品でも使い慣れたものというのは長持ちがして、修理をしてでも使いたくなるというのは私だけの感性だろうか。
建物や生活環境も同じで、長い間生活しているとどことなくその空間に愛着や心地よさを見つけ出して居続ける。つまりその空間の良さを時間と共に経験する。
それを天災などによって一瞬にして剥ぎ取られてしまうと、そこに残された感性つまり余韻だけが残り、しばらくはその余韻をどこかに求めるというのは生物の本能ではないだろうかと思えている。
物が移動するというのはそこに運動エネルギーが生じているわけだから、急ブレーキをかけるとどのような現象を起こすかぐらいは誰でも理解しているはずである。それを慣性の法則による現象として物理では説明されている。
感性の世界にも「余韻」という言葉がその現象を示唆しているのではないだろうか。余韻、惰性、慣性、反動、これらは同義語ではないだろうか。
それらを考慮した上でのものづくりというと、本来の必需品としての道具作り的なもののあり方が大切であるということにもなる。
ガウディは技術や素材の選択において、「繰り返し」とこのコンセプトをとりいれる。つまり使い慣れたものや道具は安心して利用できることを示唆している。使い慣れた道具はよりパーフェクトな対応ということになる。その延長上に改善が考慮される。これがガウディ的な手法ということになる。ベルゴスの会話にも「過信は身を滅ぼす。だからあの機械的に繰り返すものは間違えることがない。全ての敗北は、過信の結果である」という言葉を残していることからも理解できる。
つまり経済性が重視されそれに因んだ消費的なものづくりに胡座をかく前に、本来の人間としてのあり方を振り返ることが大切であるとの示唆である。
それがより自然であり対応しやすく、生活環境に溶け込んでくれることになる。ガウディの建築の中で最も使い慣れた素材としてレンガがあげられることは、何度も謳ってきておりいまだに私がその継承をし続けている。
というのもレンガは土である。それを焼成することで驚くような建材としての耐力を示してくれる。しかも最近の技術では釉薬を加えることで色にもバリエーションを加え、より地域に見合った素材として安価でしかも建築空間のベースとして素敵なテクスチャーを醸し出してくれる。 |