不完全の中に求める完璧性
寺田倉庫でオープニングから約一週間の間、あれだけ面倒だと思っていた作図をしてきて何を体験できたのだろうかと考えていた。
聞き手に回るとそんな意見がとんできてもおかしくはない。
最初のトークショーで、ある親子が聞きに来ていた。その息子さんは私にサインと写真を求めていた。同行していた母親から「息子は田中さんのような絵描きになりたい」ということで以前から私の本や作図を検索しているというのだ。改めてお礼のメールまで届いた。
嬉しい気もするがその母親には「私のような人生をトレースするよりは息子さんの好きな道を大切に見守ることが大切ですね」と返信させてもらった。
人の人生観はそれぞれに物語があり、それを他人がトレースするようなものではないと信じている。私が学生時代にとんでもない世界に入り込んで作り上げた作図作品である。そんな作品をまだ小学生の半ばでそのレベルに魅力を感じている子供の感性は鋭いものがあり、私よりも優れたものを持っているると思った。だからその母親にはその意も含めて子供の自由や好みを尊重して見守ることに専念されることを勧めたのである。
同じ年頃の自分は民家のプラモデルに熱中していた頃である。
時代も変わると育つ子供のレベルも大きく変わるものだと実感させられた。
次回5月25日から6月3日までは第2弾目のトークショーとワークショップが始まる。そこでは私の今までの考察がどれほど応用性があるのかを確かめることと、まちづくりや生活にどのように密着できるのだろうかということに焦点が絞られるはずである。
建築を実測してそこから見えている数字的な比較と生活との関わり、強いてはまちづくにも応用できるという視点が持てるようになってきたのは最近のことである。ガウディは職人たちや協力者たちとの毎日の会話は非常に建設的な話で終始することは記録からも読み取れる。
そして素晴らしい作品を作るときには情報や作品を協力者達と共有することでその完成度も上がることが洞察できる。この世の中の人々が作り上げてきたことで問題となっているのは、実は「本来の問題」ではなく「不完全なものによる仕上がりが問題を残している」ということで理解すると、問題になるのは当然という解釈が出来ると思えるようになってきた。
これには賛否両論があるだろう。しかも不完全な人間達の中で作られるものはどれ一つとっても完璧というものはないと思えて仕方がない。だから文明が今まで展開し発展してきているのではないだろうか。どのような立派な科学者が素晴らしい理論を発表してもそのレベルでしかない。つまり不完全の中の完璧性というと理解できるのかもしれない。
そんな意味を含めて「これでよし」という了解は単なる妥協でしかないとも言えるだろう。自分の作図を描いてきてまだまだ完成度を高めることができると思えて仕方がない。そうすることで常に前向きの姿勢を維持できるしさらに何が見えているのだろうかと面白い冒険心が蘇ってくる。 |