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建築家トップ > バルセロナ便り > 第325回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る


サグラダ・ファミリア教会の背景にある社会の動向

先日久しぶりにグエル公園の南西端にあるカルバリオの丘に上がってみた。そして再度このカルバリオの丘にどんな意味があるのか考えてみた。
平面を見るとカテナリー曲線上の矢印になっている。それがバレアレス諸島で見られるタライヨという台形状の遺跡に類似する。そしてそのカルバリオの頂上には3種類の十字架が納まっている。
地中海に面して水平に3本並んでいる。その周囲には頂上まで上がれる階段がある。その階段の上り口は、西側から始まり北と南に分かれての階段になっている。
Google mapによると標高は184mとなっている。公園内で一番高いところに位置する。あらためて、そのカルバリオの丘を観察していて、ガウディのメッセージを強く感じる。一つは完璧にこの矢印が、西側に向き、中央の十字架は北と南に向き、東側の尖った十字架は西と東に向いている。
不思議なのは、階段の上り口の十字架が矢印になっていること。どう見ても十字架とは思えない。しかしカソリックの世界によるシンボリズムからすると、丁型も十字架の類としている。従ってこの矢印も「三角の十字架」としてみることができる。
つまり階段の入り口上部で見られる十字架は、その三角の姿で「天空を仰ぎなさい」と言わんばかりの強いメッセージとなっている。そして頂上に上がることで、もう二つの十字架が方位を変えそれぞれに向いている。
ガウディの十八番である立体十字架は、一つの十字架に4本の腕をつけている。ところがこの十字架は2本腕の十字架となっているのだ。それらを下から見ると立体的に重なる立体十字架となる。まるで錯視的な立体十字架となる。
この公園が1900年から施工が始まり、1903年までには高架とパビリオンが建ちあがっていた。このカルバリオもその頃のものである。

一方でサグラダ・ファミリア教会は受難の境地であったはずだ。まだ設計方向性も見出せず、ひたすらフニクラーの構造模型実験に集中していた頃である。しかし建築作家としてのガウディは、コロニアグエル教会でのゴシック建築の革命的実験の最中であった。そして1908年にはその実験を完成させて施工を始めていた。実験による完成度とその新たな建築の方向性を見出せた充実感を味わっていたに違いない。
混沌とした政治社会と主義主張が強まっていた時期でもある。
その時期は、王制からフランスの産業革命後、繊維工業と重工業、特に造船と自動車産業もこの時代に発達し始め民主化運動も始まる頃になる。すると資本主義が始まり、労働者を軸とした社会主義も出始める。中でもその極左翼とも言える無政府主義の活動が始まる。つまりは労働者の反応が露骨に官僚や貴族、教会にも牙を向くようになった。その一端がリセオ劇場での爆弾事件として知られている。他にもモロッコ戦争も長いこと続き、労働者達もその犠牲になっていることへの不満の結果である。ついには1909年の「悲劇の週間」ということで庶民の不満が火花を撒き散らす。そして宗教関係の焼き討ち事件による労働者のストライキもあった。これらの社会の動向をガウディは無視することはなかったはずである。
まだサグラダ・ファミリア教会に入る前の学生時代に、自由主義を求めていたインテリの反強権主義の活動や集まりに、一時参加していたからだ。だからガウディも彼らの気持ちを知りつつも、サグラダ・ファミリア教会を仕切っていたことから、社会の波乱には巻き込まれないようには注意をしていたはずである。その社会動向へのガウディによる反応は小礼拝堂(ロザリオの間)で禾張りアーチの肘木で二つの化け物で演出していることがその裏付けとなる。

     
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