ガウディ作品の芸術性と自然の法則性
ガウディは時の人について“人は宿命的に言語が苦手でも時を動かしている人と、数字、音楽のような空間の人に分れる。”と言っている。
とすれば料理の芸術は時の人でもあるが、視覚的に感性をくすぐる空間の人ともいえるだろう。しかもフェランの料理はダリ的なシュールリアリズムで21世紀料理と評価する人もいる。
料理のメニューもスタンダードなものはなく、どれもがオートクチュールといったところである。そんな料理は見ても食べても、どのように作るのか直接シェフに聞かない限りは解らないといえるほどであると言われている。
私はまだその料理を頂いたことはないが、機会があれば是非試食してみたい気もする。
食生活についてガウディの協力者であった、ホワン・マタマラの書き記した“ガウディとの散策”に記されているが、健康にかなり気を遣った食生活をしていた事が読みとれる。
中でも菜食主義的なところも伺われる。
牛乳よりもヨーグルト、肉よりも魚。通常はポケットにナッツ類が入っていて、仕事中の空きっ腹を補充していた。
しかも彼の工房に大事なお客が来るときには、常にユーカルの葉を煮て香りを部屋に充満させてビジターを歓迎していたのである。
アートの世界はどれも共通していると言えるが、基本的に自然の作りなすものがアートとすれば、その真髄を知るには共生することで理解し合えることは、言うまでもないことかもしれない。
でもそれすら理解できず、無惨にも自然や歴史的遺跡建築物を破壊しようとする心のない人もいることは事実である。
むしろ自然の語りが聞こえるような環境づくりと、芸術・文化的な臭いをさせるような仕掛けができれば理想かなと思っている。
ガウディが作り出す建築作品というより芸術的な建築は、自然モチーフの利用をしているのは知られているが、どのように取り入れているのだろうか。
“自然”と言う言葉の定義づけが必要と思うので例えば広辞苑第五版では
<<山川・草木・海など、人類がそこで生れ、生活してきた場。特に、人が自分たちの生活の便宜からの改造の手を加えていない物。また、人類の力を超えた力を示す森羅万象>>としている。
その意味ではカサ・バトリョの面白さは高まる。
ガウディ建築には幾何学が自由自在に利用されているのは知られているが、ではどのようにして建築に取り入れているのだろうかということになる。
縦横の線だけで構成するのが建築ではない。
他にも立体構成の為の線が入ってくる。
直線が人工的な線であるのに対して曲線は自然な線としてみると放物曲線はその自然の部類となる。
身近な物質の落下による軌跡が放物曲線又はカテナリー曲線となり、回転に沿った物質も同心円上にそって螺旋状の運動をする。
遺伝子の成長から始まり、動植物の成長も螺旋状に伸びるというのも、どういうことなのだろうか。
童話に登場する“ジャックと豆の木”でも、マメの木は直線ではなく螺旋状に成長する姿が描かれている。例えマンガでも自然の動きに伴ってそれらしく表現されている事は理解できる。
衛星の軌道も直線ではなく楕円曲線で軌跡が描かれている。
全てが力の作用で曲線上に動いていることがこれによっても理解される。
骨も真っ直ぐなものは1つもない。全てが曲線でしかも捻れている。
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