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  建築家トップ > バルセロナ便り >第4回
実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

リハビリ、面接、そして再びバルセロナへ

人生の中で精神的な分岐点となる時期があるものだ。
ガウディの場合は1894年の四旬節と見られる。この時期に当時の自宅であったディプタション通り339番地4階の2号室で、ガウディは“死の断食”をしていた。勿論サグラダ・ファミリア教会の現場は続いていたので、毎日の様に彼の右腕フランシスコ・ベレンゲールは、仕事の報告と同時に断食を中断するように奨める。しかしその願いは聞き入れてもらえず、ガウディの友人であるビック市の司祭トーレス・バジェス博士によって説得をしてもらうことで無事断食の危機から脱出を果たすことができた。
その経験を元にガウディは後に「体の苦行は精神の悦びである。そして体の苦行は継続した仕事であり、忍耐である」と言い残している。
 
大工の棟梁の家に居候しながらのリハビリ
 
バルセロナ
バルセロナ
私の場合は苦行と言うよりも無茶苦茶な荒行で引き起こした病に犯されただけで、その快復とリハビリも兼ねて、肉体労働として棟梁の元で現場監督をさせてもらった。
最初、部屋が見つかるまでは棟梁の自宅の応接間に泊めて頂きながら、毎日の作業が始まった。初めに現場を棟梁と見て回り状況を把握することから始まり、その後は毎日のように工場で加工された材木をトラックに積み込む作業から現場への運び込み、時には釘袋を腰にぶら下げて他の大工の手伝いを始めた。現場での昼飯は棟梁の奥さんが作ってくれた。弁当の味はまさに家庭の味そのもので、今でも忘れることがないほど懐かしい。私の学生時代は、家庭の味など殆ど味わったことがなかったと言えるので、そんな些細な弁当だけでも家庭の味を満喫できたことが嬉しい想い出となった。
それからまもなく長屋の一軒屋が見つかり其方に一人で住み始めたが、家具はなかった。この際と思って、週末には棟梁の工場を利用させてもらい、自分がデザインしたオリジナル椅子やテーブルを自分で製作することにした。制作中にガウディの建築を想い出しては「彼ならこうするかも知れない」と想像しながら創作の世界に夢中になっていた。
仕上がった椅子の幾つかは、バイト期間中に完成した新築の住宅にプレゼントし、お客さんから感謝された。
バイトの日々を過ごしているうちに身体は益々強くなった気分であった。
しかし疲労が激しくなると、健康のバロメーターのように炎症を患った肋膜部分での鈍痛を覚えて、作業も控えめにして身体をいたわることもおぼえた。
漸く(ようやく)スペイン政府奨学金の面接の日を迎え、面接担当の人に作業と作図を見せて、バルセロナでの作業の状態と継続の目的と理由を説明した。面接終了後の別れ際に合格の確率を尋ねた。すると審査員は「他にも全国からの応募者が沢山いるからどうなるかは解りません」と返答され肩の力がすっかり抜けてしまった。
まだバルセロナには実測の作業道具や研究のテーマも残していた。これで援助が受けられなくなったら、いつガウディの街に戻れることになるのかと思うと気が遠くなりそうな思いであった。その不安な気持ちを抑えながら面接の担当官に別れを告げてバイト先であった東京の青梅に戻った。
 
合格通知、家族の反対
 

その年6月に突然、スペイン大使館からの通知を受け取った。
どんな内容の返事による通知かは勿論予想はできなかった。しかし50%のチャンスと思いながら一気に封を開けてみると、国費留学生の合格通知であった。これで新たな冒険への架け橋が架けられたのである。
その合格通知で驚くというよりも改めて真剣勝負といった気にさせられた。
さっそく旅支度を始めた。実家に戻って両親に国費留学の報告をして悦んでもらえると思った。ところが予想外の返事で、父は何故か心配のあまり怒っていた。兄はきつい口調で私との決別の言葉を吐いていた。しかし母と長男の兄だけは私の夢を実現させるための応援をしてくれていたが、どうも不安げな素振りが隠しきれなかったような印象を想い出す。

その家族の反対を押し切って病み上がりの私は、「大工の現場で鍛えた体はこれからしばらく使える」と自信をもって8月にスペイン入りすることになるが、その前に久しぶりのヨーロッパ旅行をすることにした。

 
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