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実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

自然との対話、ストレスからの解放

ガウディはベルゴスとの会話の初めに「ローマ時代の羊飼いは、乳を搾ったり、刈り取りをしたりした後、長い休憩では家畜を世話したり空や星を眺めたりしていた…」と語りはじめる。 そのガウディがいかにも自分を牧人に見立てたかのようにして、自分の作品の中に星のイメージを演出しているところなどは詩的である。

ちょうどベルゴスとの会話を始めた一年後に、グエル地下聖堂を中断することになる。 このころグエルは病気がち。労働者と反教会の紛争時期に、家族では恐らく工場地区の教会建設に投資を続ける事ができないというグエル家の決断が起因しているだろうともいわれている。社会情勢も1900年のアナーキズムと1909年のモロッコ戦争以後の悲劇の週間による資本家と労働者の対立、その間を干渉する軍隊や警察の三者による衝突の渦。さらに追いうちともいえるような1914年の第一次世界大戦によって、スペインでは政治経済の騒乱時代といえるのかもしれない。

資本家や事業主達は、被害を受けるわけだからナーバスになり、グエル家も既に1885年の社会争乱で工場長ホワンソール・バトリエスは殺され、役員のドミンゴ・ラミスも負傷している。 そんな経緯から、グエルは労働者達との不和を緩和するために工業団地の設置を計画したと考えられるようになる。 いずれにしてもグエル家はその争乱に巻き込まれた当事者であり、献身的なグエルは、よりよい対応策として工業団地計画を立てたと思われる。 しかしその後間もなく、工場内部の腐食染めのタンクに落ちたホセを助ける為に、なま皮膚を提供した息子クラウディオはそれ以来体が衰弱して1918年に結核で死亡。その悲しみで、その後を追うようにして1918年7月9日には発作でエウセビオ・グエルは亡くなった、と玄孫カルメン・グエルが彼女の書物で述べている。

その社会的な争乱期、ガウディも同じように、1910年に脳貧血と神経衰弱という診断を受ける。イエスズ会の神父イグナシオ・カサノバスの勧めによって、療養をかねた休養に3週間ビックで過ごし、1911年にはマルタ熱でピレネー山脈にある国境近くの街プッチェルダで療養している。 社会的な争乱と周辺の状況の中でこの地下聖堂を計画する作業というのは、心身ともにストレスも高かったと思える。 そんなこともあって1915年以降、ガウディはサグラダ・ファミリア教会だけに没頭するようになる。

その時期にさしかかる1908年10月4日、この地下聖堂の為に第一礎石が設置される。場所は松の木林の中腹に定めることになるが、なぜその場所をガウディは選択したのか。伐採された松の木は凡そ30本と、現地の管理人は述べている。 その数と建築物の規模からすると松の木一本の専有面積は凡そ56平米となる。 通常地中海松(ピーニョ・ピニョネロ)というのは樹冠の大きさが直径7mくらいだから、面積は38.47平米となることから、少々ゆとりができる。

樹木の植栽間隔というのは樹木の大きさに比例する。

   
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