戦う道具としての機能からデザインへの昇華
ガウディ建築に見られる鋸朶のデザインはオリジナル性が高い。アナクロナイズされたような鋸朶にみえる。ところがどっこい、一癖も二癖もある。
鋸朶の歴史は古く、中世時代に多くみられるが、世界的に「恐怖の遺産」という風に表現するとスキャンダルな表現だといわれるかもしれない。しかし本来の役目は戦争の為の防御対策として計画された背の高いパラペットで、鋸朶の間から弓矢、剣を振りかざして敵から守る手段に利用された。その形はその城の主、つまり王様の冠にも表現されたシンボルとなっていた。
現在ではそんな戦争はないので、そのシンボルは利用する人たちのための安全性を確保するパラペットとして次第に小さくなり、手摺を支持する立子に退化したと言える。その退化したはずの鋸朶をもって、ガウディは19世紀末建築から近代建築に新たな姿で再生したということになる。
彼のデザインによる鋸朶は例えば、グエル公園のそれは有機的にデザインされている。そんな些細なところまでどうして有機的に考えたのだろうか。という疑問はだれでも抱くはずである。そこでガウディの書き残した日誌を覗いてみると、装飾について
「詩的アイデアを想起させなければならない。目的は歴史的、伝説的、躍動的、象徴的、人間の生活における寓話、躍動、受難、そして自然を尊重し、動物王国、植物、地形を表現することもできる」
と書き記していることを思い出させる。
ということで、このディテールはすでに歴史的なものであるが、ガウディの作品でこのディテールを採用するには何か理由があったにちがいない。
1888年9月1日にはテレサの建物の第一礎石が、ガンドゥシェル85番地に置かれた。建築家ホワン・バウティスタ・ポンス・トゥリバルの図でファサードがビザンチン・スタイルで計画されていた。途中でガウディに主導権が移り、幅60m、高さ17m、奥行き18mの矩形の建物に変更された。
最初の建築家の図面とガウディが計画した学校ファサードの大きな違いは、1階分が建て増しされ高くなり、さらに寄せ棟の形から陸屋根となり鋸朶が取り付けられ、半円アーチ窓から矩形の窓枠にカテナリ?アーチの窓が納められた。これだけみてもガウディ以前の建築家による歴史主義的模倣建築からオリジナル建築への移行は明確に示されている。
当時の工事状況をエンリケ・デ・オッソは、サンタ・テレサ会の小冊子に定期的に説明していた。施工工程と併せて彼の心境もその中で伺われる。
オッソ神父は1889年3月25日の会報で、「非常に飾られた学校で唯一ガウディ・スタイルである」としていたが、同年の5月12日の会報では「ガウディがいっているように、そこは良くなり美しくなり、バルセロナにこれと同じ物はなくスペインにもない」というように変わる。
おそらくオッソ神父は、ガウディのオリジナル性に満足していた言葉を会報にのせたということなる。
そこでガウディによるこのテレサ学院のオリジナル性はどこにあるのかというと、鋸朶とカテナリーアーチである。先に記したオリジナル性の高い鋸朶は、キリスト教による神の国のシンボルでありそこに嵌め込まれたセラミック性の「T」はテレサと十字架(ロサリオ)の象徴でありキリストの象徴となる。まさにガウディによるシンボルの演出である。 |