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実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

故郷のサッカー少年達のために土地を提供

「環境と人」についてガウディは
ものが悪くできたりできなかったり、仕上がらない時は、適正な人がいないということである。
環境の不足によって作れないのではなく、人が欠けているのである
」。
と述べている。
最近まちづくりの中で「私の町には何もない」という事をよく聞かされる。実は町になるまでの歴史があることを忘れているという証拠になる。
そこで歴史を調べると、集落ができる事自体に何かしらの要因があり、人が集まり町ができあがってきたことがわかる。そのあたりを再考すると、それまで忘れ去られていた事が回顧されることになり、再生復活というより展開ということで時代にあった方法があることを理解すると、かなり面白い事が考えられる。
まったく話は変わるが、つい1か月前に南アフリカで行われた2010年サッカー・ワールド・カップでスペインが優勝した事は、彼らにとって記念すべき出来事であり同時に少しは経済回復のきっかけになればと思う。

そこで「サッカーとガウディの関連のエピソードはあるのか」と尋ねられるとそれがある。2002年2月24日日曜日のラ・バンガルディアの新聞記事に「私はアントンを知っていた」とのタイトルで、ガウディの出身地レウスのサラ・サンツが記事を載せていた。
その中のひとりブエナベントゥーラ・メストレスは当時84歳で、このインタビューは2000年に実施された話でありガウディとの関わり合いは1925年の出来事を回想していた記事であった。
それによると、彼はガウディの生まれたリウドムス町の隣の街レウス生まれの84歳である。彼の父は当時ガウディの財産であったマス・デ・ラ・カルデレラと他に3つの地所の財産管理人をしていたという。
父ジャウマは寡夫でよくバルセロナを尋ねていた。

ブエナベントゥーラ・メストレスが彼の父ジャウマ・メストレスと一緒にモンセラーへアコライト(司祭者の傍でお手伝いをする少年達)としての申請と声のテストで出かけた帰りに、ガウディのいたサグラダ・ファミリア教会に寄った話である。
ちょうどその頃、ガウディはサグラダ・ファミリア教会に住み込みしていたときで、彼の寝室を尋ねた。しかし彼はそこには居なかったので工事現場を探してガウディと出会う。子供だったブエナベントゥーラにとって、工事現場は巨大な印象を受けていた。そのなかで父とガウディに手を取られて散歩しはじめ、お話がはじまったという。その時のガウディの話し方は天使のように思えたと言う。というのもガウディは重要な仕事の立場にありながら虚栄心のあるひとではなく、むしろ全く逆で聖人のように謙虚そのものであったという。

リウドムスの子供達にはサッカーができる広場が必要であったので、そのためにガウディに彼の所有していたサクランボやぶどうの木が植えられていた地所を分けてもらえないだろうかと尋ねた。
すると「私の町のためなら、すべて」といったという。
その後リウドムス・デポルティウは数年間その場を利用したという。

ガウディの人間性を示している一面であるが、重要なのは仕事による立場と併せて高齢であったにも関わらず謙虚でしかも誠実なひとであるという見方を他人がしていたということである。
     
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