見えない物の本質に辿り着くには
ガウディは建築には4つの条件があるという
「1.場所、2.規模、3.素材(色)、4.形。
形は感触を与えるが、設定されず、視覚は形を設定しその色や規模を与える。この4番目の後には安定性と続く」
としている。
ベルゴスにも建築における視覚の安定を示唆している。
視覚には光が必要だ。この光によって色も形もありえる。しかし目には見えない光というのもある。 心の光である。心の光でかたちや色を表現できるのだろうか?
ここで自らそのシミュレーションをしてみる。
生まれた時から目が見えないとする。すると聴覚、触覚、臭覚が発達する。光の明暗がどんなものか解らないはずだが、そこで聴覚でものの動きを判断するようになる。
例えば、人間達や動物達も動いているときは日中(中には夜行性の動物もいるがそれは例外とする)。一方で何も動いていない時を夜中とする。そこで聞こえてくるものと言えば人のイビキやフクロウのような動物達の鳴き声かな。と言った具合に生活サイクルを脳裏に焼き付ける。「心象生活サイクル」というのができるはずである。
次に形はどうか。形が「円」とか「四角」とかは触ってみれば解るが正確ではない。それも次第に直角なもの鋭角なものによる形の判断がつくようになるのだろう。しかし触らずして遠くに見えるものがどんな形かということは、誰かに教えてもらわなければ判断できない。
次に素材はどうだろうか。ものである限り臭覚と触覚によって判断できるものが多い。木材であれば鮮明である。檜風呂に入った人はその匂いを忘れないだろう。その匂いは脳天にしっかりとこびりついているはずある。
ところが陶器や金属類になるとそうはいかない。 ここでは臭覚よりも触覚でその見分けがつくのかもしれない。つまり温度による感触が金属とタイルでは違うということを理解するだろう。
そして触覚の為に素材を引っ掻いたり、叩く事でその材質を感じ取る事ができるはずである。
そのようにして目を閉じていても、モノの存在を知りえる手段があるということになる。
建築においては通常でも分かりにくい事がある。それが作家による「演出」である。
とくに芸術、歴史、神話となるとさらに複雑になる。
通常だと単なる装飾としかみないだろう。
実を言うとこんな事を言っている自分もそうだった。
普通には見分けがつきにくい。モノの形や色、そこから何かを読み取る事を考える。その方法の一つが実測である。まさに本稿の副タイトルでもある。
でも計るだけではまだ理解には不足している。そこで比較が必要になる。
比較をするには、計ったものと他の類似したものとの相違を確認しなくてはならない。
これらは全て肉体労働による作業である。さらにプラス・アルファーとして古文書や資料に目を通すことになる。これを検証とか学習という。特に海外のモノをテーマとする場合は、原書を利用するのがもっとも信憑性が高い。しかしそれには問題が多い。言語はもとよりその時代特有の表現とか、すでに存在しない固有名詞まで登場するからである。
表現に関しては、現地で生活を共にしなければ解らない事が沢山ある。特に地域性による表現や固有名詞である。方言等使われたあかつきにはしばらくは悩まされる。
特に学者達の文章に至っては英語やフランス語は勿論のこと、ラテン語やらギリシャ語なども記されていたりする。そうなるとそれに沿った辞書も必要になる。 |