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建築家トップ > バルセロナ便り > 第200回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

記録と記憶、作図と表現

初めてサグラダ・ファミリア教会誕生の門を見た時、あまりの彫刻の多さに建築ではないと思った。以来、その不思議な建物に向き合う度に好奇心がかりたてられ、ガウディとはどんな人なのか知りたくなった。

あれからもう40年以上は過ぎてしまった。
あのときの印象は、今でも脳裏にしっかりと焼き付いている。
現代は情報が容易に入手できるので昔のように図書館に通って何万冊とある本の中から目的の単語を探さなくてもよくなった。
パソコンの前に座って検索に自分の探したいテーマを記入するだけで、テーマに関わるオプションが山ほど紹介される。そんな世の中で、ものがありすぎたり条件が良すぎるというのも考えものであるとさえおもってしまう。時間をかずに探すと言う行為は、確かに時間を合理的に利用できるようにしてくれている。しかしその代償として、人間の持つ機能が退化しはじめているとさえ思えている。体を動かして本を探す。すると色々なスタイルの本に出逢う。目的の本に到達する前に目に飛び込んでくる面白い表紙に出逢えば、中のページをぱらぱらめくりたくなる。そうすると別の世界に誘われてしまう。本を探しているうちに可愛い女性の姿を見たりもする。これも寄り道である。しかしこの寄り道がなかなかのくせ者でどこかで役立つ事もある。その寄り道で記憶にアクセントをつけることで気持ちをリフレッシュさせ、確かあの時見た事のある気がすると想い出させる。一瞬にして、確かあの時見た事があると想い出す事さえある。これも記憶のなせる技である。人々にはこの記憶が備わっている。
頭脳というのは面白い仕組みになっている。

また作図についても現代ではパソコン用のオートキャドで作図をしたりする。
学校でもそれが主流のプレゼンテーションとなっている。
建築学校での初期は、手描きによるデッサンとか簡単な作図を練習させられる。中には課題にされた場所のスケッチで線を二〜三本で提出する学生もいれば描き込む学生もいる。どうしてこれほどの違いができるのだろうかと考えさせられる。勿論、描き込めばそれで良いとは言わない。しかし課題となる場所のスケッチで本当にスケッチする気があるのだろうかと思わせるような課題の提出には、閉口するというか評価の対象にならないというのも当然である。

私はガウディの作品の実測作図をはじめた時、実測対象のデッサンからはじめてその絵の中に寸法を書き込みはじめた。確かその階段の傍にあった草木のデッサンまでしたことがある。それもスケッチが苦手だからその練習の為にとおもってのことであった。あれから36年は流れている。
作図をするにも建物だからテクスチャーの表現としての目地を一本一本丁寧に描き込まなくてはならない。今思えば気が遠くなる世界である。しかもサグラダ・ファミリア教会やグエル公園の作図で経験した5年や8年という歳月を作図だけに費やすというのがどんな心境になるのかということも体験した。
端から見たら「サイコパスのなせる技」と思うかもしれない。

狂気に近い行動は、実は自分を最大限ではなく無にしている状態なのである。つまり何も考えずに作図に熱中している自分だけの世界である。
     
田中裕也氏プロフィール
 
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