自然の中でこども達を育てたい
ガウディの日記に「家族の家とは実家のことである。そこではだれもが美しい野原や町を想い出すであろう」というはじまりの文章がある。生まれ育つ環境の在り方とは、牧歌的で田園風景の中にある家の存在が彼にとって理想的なのだろうか。今のバルセロナのような都会では見られない。しかし子供にとっては大切な環境であり、自然との調和を見いだしながら成長できる空間が観察力や創造力を増してくれる。
ガウディは、バルセロナの激しい人々の動きのなかで、常に自然回帰こそが人々の成長にとっては欠かせないということを言わんとしているのだろうか。その後、彼はさらに「オリジナルを求める時には原点に戻る」事を勧めている。
しかも彼の日記の中で装飾について「物が非常に美しくあるためには、その形に余分な物があってはならなず、素材の条件は単に役立つものとして理解できる。そこから普通の形が生まれ、多くの部分はコントラストによって優しい形が与えられ、周囲にもっと優しくするか、それでも駄目な場合は、躍動的な雰囲気の形態として、単なる装飾を補助として形態を讃える。それによって機械的で素材的な部分は失われ、必要性に応じて十分満足できる形となり、物の”性質”によって条件が与えられる」として装飾を補助的にとらえる事を記している。つまり自然界には余分なものはないと言わんばかりである。
これも即ち、美の根源がシンプルさにあることを示唆していることになる。
形の在り方には「装飾の目的は、歴史的、伝説的、躍動的、象徴的、人間の生活における寓話、躍動と受難などである。そして自然を尊重し、動物王国、植物、地形を表現すること」も記している。
ガウディの美学がこのあたりに起源をなしているということにもなる。
彼の装飾についても美しいものというのは自然であり、自然のなかにこそ美の根源があるという考え方となっていることも伺われる。つまり「自然とは完璧なもの」という見方である。自然の「木」を参考書と見立てるガウディの姿勢は、既に知られている自然主義者のありかたでさえある。
私も少年期から自然観察を繰り返した。面白いと思う前に動植物達の生態観察が一生忘れる事のない経験として、しかも参考書よりも確かな情報として私の中にある。
ガウディも同じように実感し、実家の在り方を説明しているのだろうと伺える。
ガウディの少年時代もやはりタラゴナ周辺の田園風景にあった。その中でもっともダイレクトに、しかも感受性の高い時期に田園風景とか牧歌的な環境で自然との対話を大切にしようとする彼の心が日記の中で読み取れる。
これは生きる上での真理だとするとどうだろうか。
ガウディ時代のバルセロナは相似的に今と変わらない人口と賑わいかたであったと見える。豪華絢爛なテアトロや社交界など大人達の交流の場であった。石で囲まれた街には自然のひとかけらもない。本来の自然な人間性に欠けた冷淡にして偽善に包まれた社会を覗き見していたのではないだろうか。 |