19世紀末、ガウディの活動の背景には
ガウディは幾何学について
「表面を作るための幾何学は複雑ではなく、構造をシンプルにしている。複雑なのは幾何学の代数で、表現によっては誤解をまねく」
としている。
カサ・デ・ロス・ボティーネスを竣工させた1892年以後、1898年までの6年間、ガウディの仕事は、サグラダ・ファミリア教会の他,建築らしい計画がなかったことが伺われる。
これをガウディのブランク時期としてみることができる。そこであの1894年にガウディは断食をする。この頃ガウディは何を考えたのだろうか。
そして社会的に何が起きたのだろうか。非常に興味を持ちはじめた。
その頃のガウディの建築活動を年代順にみると
1892年—1893年は、タンジール計画があってスケッチだけがのこっている。
1893年にはグラウ司教の為の墓碑を計画、アストルガ神学校の回廊改修。
1894年、フォロレンシーノ・バジェヨーナ・マサゲの仮小屋計画の作図がありガウディのサインが入っているものの、ガウディ自らが描いたものではない。
1895年、グエルの依頼によるガラーフ・フィンカでは、ガウディの右腕であったフランシスコ・ベレンゲールが計画。後のガラフ酒蔵と同じような建物でガラフの街に幾つか建てる予定にしていた。他にグエルの依頼によるランカステール通りの貯水槽上屋、さらにグエル依頼によるコンデ・デ・アサルト通りの守衛室、ランブラ・デ・カプチーノ通りの洗濯場、モンセラー山の記念碑とグエル家の廟墓、そして作図にはガウディのサインは入っているが彼の右腕フランシスコ・ベレンゲールによるボデーガス・グエルと続く。
1897年1月には、グエルの依頼によるアンチャ通り近くのコドールス通り16番の家のテラスの洗濯場計画で配置図、断面図、平面図、立面図までの作図が残っている。
そして1898年−1900にカサ・カルベと続く。
これらは「ガウディの作品、芸術と建築」(1985年、六曜社)や「Gran Gaudí」(1990,Editoral Alsa,ホワン・バセゴダ著)でも紹介されている。
1892年から1898年の間、ガウディは、グエルの庇護の元に僅かな計画をしていた事になる。他はサグラダ・ファミリア教会だけである。
この頃の社会状況はどうだったのだろうか。
まさに19世紀末。フランスやイギリス、ドイツ、オーストリアなどで世紀末運動のまっただ中であり、他の世紀末運動を主流とする建築家達の活躍は激しいものがあった。
ここで気になるのは1892年にスペインでは無政府主義者達、テロリスタ、労働組合の立ち上りで政府への暴力による圧力がはじまっている事である。
政府との対立の中で資本主義者や事業家達への圧力もかかり、当時の社会に緊張感と危機は明らかであった。
つまり事業家達の展開に危機感もあったということになる。
建築事業は資本家や事業家による投資が必要なわけであるが、労働者達との衝突は少なくても建築業界には影響あることも伺われる。
当時の文化人達の動きもあわせて見る。
1895年には作家で詩人のミゲール・ウナムーノは、「平和と戦争」を執筆している。
1895年2月23日にはキューバの独立運動も始まる。
1896年には劇作家アンヘル・ギメラ(Angel Guimera)が「ティエラ・バッハ」(低地)を執筆して近代カタルニア紛争を説明している。
1897年にはアンヘル・ガニベット(Angel Ganivet)は「スペインの理想主義」を執筆し因襲的な習慣の改革と合わせて教育、政府の規則、ヨーロッパの一員として王室衰退のスペイン文化のあり方などの説明をしている。かれらの活動は、社会の沈静化を意図した活動であった事は疑う余地もない。 |