建築の中の民族性
建築の中に民族性を演出するのは世界的に共通している。
日本では平安時代の唐様から和様に関わるように、地域の様式を伝統的に継承させていた。それが文化の象徴でありそこから民族性も読み取れる。
マヤ遺跡やエジプト時代の絵文字グリフォにも、当時の民族の様子を演出している。しかも絵だけに限らず建築様式にも表現されている。
柱や壁にはその地域にある植物を演出した装飾模様が表現されることもある。つまり建築を計画する人達は、周囲の環境に従って詳細な演出表現を考えていたということになる。
この時代には現在の様なSFは存在しない。それに替わって神がかった想像がある。それは予言であったり神格化された化物であったりもする。人間社会を超越した世界のものを現世に演出させることで、未来への願望を象徴させるというのが当時の権力者達の演出でありメッセージであった。それに合わせた植物模様も演出されたりすることになる。
象徴化又はシンボリズムということばがある。
日本では家紋がある。戦国時代からこの家紋は利用され敵味方の分別をするのに利用したと言う。
他の国でも種族や部落によってそこのシンボルがある。王国であれば王冠、地域の代表が頭に載せる冠や帽子によって代表される。例えばローマ法王の場合はミトラという法皇帽子がある。日本の天皇も奈良時代には冕冠というのを被っていた。しかし、時代とともに地域の代表も庶民化していき、その冠さえも被らなくなってきている。
建築も同じように、時代相応に地位や権力のあり方が変化するのに伴い、それにそった変化をしてきた。
建築を計画する場合にこのような民族性を演出するという行為はレトロなのか。
レトロの善し悪しは、むしろ民族性の象徴をどのように次世代に継承するのかの必然性にある。民族性というのは人々のアイデンティティーである。
これが人々にどれだけの影響力を与えるのだろうかと言う現象を昨日のニュースで見せつけられた。
毎年、フランスで行われるローラン・ガロウ杯のテニスで、スペインの選手ラファエル・ナダール(28歳)が9回目の優勝を果たし、エッフェル塔の前で優勝カップを高々と抱え上げたシーンが新聞に紹介されていた。
そして、マジョルの実家マナコールの街でも市民達の声は自慢話であった。
素晴らしいことである。世界チャンピオン・ナダールがスペインの実家に戻りその悦びを分かち合っているシーンはとても素晴らしい。
このような出来事でも民族や地域で結びついたアイデンティティーの素晴らしさを象徴している。
これからも歴史上に多くのできごとが続く。
そしてそれぞれの分野で活躍する人達は、自分達のアイデンティティーを忘れることなく関係者達とその悦びを分かち合ってそれぞれの道を歩む。
そのようなアイデンティティーを演出させた建築の必要性というのはこれからも続くだろう。しかし、日本だからといって和様、和洋折衷ということでもない。
日本民族としての様式とは何かということで再度認識することなのかもしれない。しかも地域によってもその違いがある。
見せかけではなく本来の日本様式とは何か。と言うことを再度検討して次世代への提案があっても良いのではないだろうか。 |