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建築家トップ > バルセロナ便り > 第257回

実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

習い事からオリジナルへの転換点

私にとって実測とか測量というのは、現地に赴いてのフィールドワークの様な作業であると思っている。いつまた私と同じような作業をしてみようと思う人が現れるかもしれない。その為にもできるだけ精度を高めておく必要がある。
それが100年先か1000年先になるのかわからない。でも歴史的建造物の重要さが高まれば、それに合わせてさらに詳しい調査をしてみようという動きが無きにしもあらずということである。
実測の精度というのは、当事者の目的や用途に応じてその測り方によっても異なる。だから私の実測とはかなり違う事があって当然である。
それは、はかる時の道具、手段に応じても異なるからである。
私の場合は作図をするにあたって必要なデーター収集を目的とし、幾何学的処理も考慮した実測となる。さらに使用される材料が伝統的な素材として煉瓦を利用しているのであれば、その煉瓦の寸法もはかる事で実測と材料サイズ、そして幾何学との間における整合性も検討することになる。
ここまでは建築技術としてのことである。
ところがガウディのような作品の場合はそれだけでは測った事にならない。さらに歴史性、民族性、アイデンティティーを含めた地域性までのデーターを把握しなくてはならない。

勿論そんな作業は学校の教科書には載っていない。
学校の勉強と言うのは基礎であり自分がしたいと思う目的への道しるべとなるだけである。その後は自分の個性に合わせての学習にかかってくる。
夢のある人達は冒険的と思うかもしれない。しかも一生「学びの精神」が必要となる。つまりそこから本来の好奇心と夢への実現への歩みとなると私は信じている。
その為には多様なアクセスがある。それを無意識に物まねするように歩みはじめると、どこかでつまずいてしまうのはなぜだろうか。
人の真似事は、一時期あって当然である。しかし自分に適応した手法ではないということの自覚をする時期がやってくる。それが人生における転換期となる。
私の場合はちょうどスペインに旅発つ25歳の時である。

習い事には、ことごとくその論理を教授してくれる師がいる。
それぞれの道で若者達にはスランプの時期がやってくる。師から習った道にそって歩み始めとき、その限界を感じる時がやってくるからだろうと自分を分析している。それを乗り越えられる人とそうでない人に別れる。仕方がない事である。それが個性なのだろうと思っている。
つまりどちらを選択するかはそれぞれの個性に適応した生き方となるのだろう。
最初の師は両親、次に学校の先生、そして習ったレベルのマキシムに達したときスランプとなり、次のハードルを越える準備に入る。
そこまでに、どんなデーターを準備してきたかによってその人の成長の仕方がかわってくる。そこでそれぞれの個性のレベルが見られるのではないだろうか。
ガウディの作品にもそのようなケースが伺えるのである。
それを理解するその力は、実は自分が蓄えて来たデーターの裏付けによるのではないだろうか。
それぞれの分野で自分のして来た事がどのように社会に役立つのだろうかと考えたとき、これから何をするのかと言う事やどんな事を創造できるのだろうかと考えてみる。

人によっては何の事か解らないと言う人もいれば、次はこうしたいというアイディアを生み出す人もいるだろう。
     
田中裕也氏プロフィール
 
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