夢は実現すると信じる
ガウディはこう言っている。
「人生は愛、愛は献身である。家が華やいでいる時は、給仕や子守りと言った人達が献身している。両方が献身しているときは人生全体が輝いている」
私はこの「愛」という言葉がどうも理解しにくいが「思いやり」なら理解しやすい。
そして「愛」と「憎悪」が表裏一体のようにも見えている。人への愛を信じていながらある日裏切られた時、そこから憎悪に転じる。よくあるパターンである。憎悪は鬼や悪魔に変わる。まるでファンタジックな世界である。
自分を信じて夢を追いかけ、その夢が実現しないと絶望の奈落に落ちる。
私も学生時代、夢であった建築家を目指していた。ところがガウディ建築の現物を見てまさにその夢が崩れたかのように思えた。というのも私が大嫌いなアートで埋め尽くされ、建築というより彫刻的である。これが建築とするならこれを理解することも超越することもできないと思ってしまったのだ。
まさに絶望の奈落であった。それからというものなんとなく学生時代を卒業した。社会人となって実社会の建築の世界を少し見ることで、また改めてこれは私が望んでいた建築の世界ではないと思った。その時に学生時代見ていたあのガウディ建築が蘇ってきた。実はそれが私の求めてきた創造性を求める建築家への道となる。今振り返るとイバラの道を歩んできたような気もする。
原動力は、私の記憶からあのガウディ建築が消えていなかったからでありその理由が知りたいと思いたったからである。
このイバラの道を歩み始め今年で40年を迎える。その経緯を何度も振りかえる事でこれが実は夢の世界なのだと思えるようになった。
あの大の苦手なアートや絵の世界に手を出し、手間のかかる肉体労働で実測して作図をした。夢にも描く事のできなかった作図で、自分の手の中にあるからである。
そして今その経験をベースに、自分に適した創作性によって自由自在な発想までもできるようになっていることに気がついた。
最近ではまちづくりという活動を進めて、今までの経験をその中で生かそうと考えている。
文化、伝統、環境、地域性、などを踏まえながら、地域の特性を認識した上で再生可能な、また地域の発展を考慮したまちのあり方をみつける活動である。まさにフィールドワークであり、地域に根付いた本格的なまちづくとなること願っている。
ガウディは建築を計画するときには単に建築という器を作ることではなく、周囲への還元も考えた作品とするのが彼の建築姿勢となっていることもわかってきた。歴史を顧みながら新たな未来への可能性を引き出すような創作過程が、とても私には役立っている。
それらの提案はシンプルな実測と作図の行為を何年も繰り返すことで培われた知恵ではないかとも思っている。
そんな経験をしてきた私が講演やワークショップでお話をするときに気がつくのは、どうして夢が現実になるということを信じてくれる人が少ないのかということである。人によっては社会の責任にする人もいる。あまりの情報化社会となり、容易に多くの情報が手に入る。機械的な作業には良いが、人間としての作業にはまだ問題が多すぎるような気もしている。 |