生きること、徳を積むこと
ガウディの言葉で「独自の愛」について
責任を自分に負うことはたとえ責任がなくとも徳である。そう見えなくとも真実が輝く。これは非常に徳である。つまり善行の敵は独自の愛である。たとえ結果がまだ出なくともそれを支配し抑えておくことができる。
と説明している。つまり自分にとっての徳をどのように身につけるかということを説明している。これもガウディ倫理の一環なのだろうか。
現在は、少子化が大きな社会現象になっている。経済社会と雇用問題そして高齢者問題も相関関係として浮かび上がっている。
人間社会では昔も今も基本的に生きるための方法は変わらない。生き続けるには食を摂り、身を環境から守るために衣類を着て住むところもあって厳しい環境から身を守る。ただ時代に応じた手段や道具によって時代のスタイルをもたらし、それらに合わせ環境が激変してきた。
現在ではほとんどのものがデジタル化され、AIが人間の活動にとって代わるものとして流行語にまでなっているほどである。昔のおもちゃがデジタル化され、まるで自ら環境を察知して行動に移すということである。
ロボットと人間の間には感性という「あいまいさ」に大きな隔たりがあり、ロボットには想像がつかない世界である。つまり人の魅力がここになる。意外なことを直感的に想像できること、そこから生まれる夢、などなど夢を大きく膨らませることができるのも感性や感情の世界。AIの世界はデーターの積み重ねでしかないので、それを超越することは機械にはできないということになる。ただし指示した方程式に従った計算なら永遠に続けることができるのが機械の魅力であり、その耐用年数の間は動き続ける。素材にはメンテが必要であり、エネルギーの補給の仕方に応じて動き続けるということになる。
エネルギー源が半永久的にあるとしても素材というのは磨耗が発生するので、いずれはその寿命がやってくる。それを耐用年数として私は見ている。
そんな社会の中で少子化や高齢者問題とは何事だろう。
少子化は男女関係の問題である。都会では経済性の問題もあって大家族の維持は大変である。ところが自給自足しているところは場所に関係なく少子化はどこ吹く風という感じである。
つまり現代都市がもたらしている経済ストレスによる現象というとどうだろうか。
高齢者問題も同じようなことが言える。定年してもまだ働ける人たちはたくさん居る。しかし社会における一般的な雇用条件がそのように規定されていることで、ある年齢に達するとその刻印を押されてしまう。
雇用制度と社会の流れに沿ったベルトコンベアーに従った人生を送ってきた人たちが職場を一瞬にして無くしてしまう。行き場をなくして狼狽する人、ストレスで病気になる人、施設に入る人など様々なスタイルの生き方がある。それは生きるというより生かされているという表現に近い。
これらに自分も含まれているが、幸いにしてマイペースな生き方というかほぼ自給自足的な生き方で人生を歩んできた。よってなんの拘束もないし、ストレスの溜まらないような生活を願ってきた。それによって自らの発想で人生のベルトコンベアーを動かしている。この機動力は好奇心とイマジネーション、それが発想のエネルギーとなってたゆみなく補給し続けている。
大事なことは固定概念に縛られないことである。どの世界でも自由な発想があって当然であると信じている。それを認めることで共棲が成り立つ。そこには年齢の差はなく、立場もないという大きな批判を受けるかもしれない。
でも知恵ある霊長動物の長がヒトとされるのであれば、その知恵を振り絞ってさらなる共棲手段を展開させることができると信じている。 |