建物が映す歴史、社会、民族性…
地域性を反映させた芸術作品とか建築はどのように作られるのだろう。
通常は地域性を作品に演出することは、とても難儀する。
建築そのものが人々を自然の摂理や現象から保護する装置としてみると、利用する者たちによる機能性や習慣なども反映されるからである。
日本民族による芸術的感性が居住空間にどのように還元されているだろうか。入口、玄関、庭、サロンと詳細における民族的アートな施しが見られても、建物全体としてはむしろ皆無に等しい。つまり伝統的な屋根の形に寄棟、数寄屋、合掌、片流れ…、そして瓦や藁葺き、最近では天然スレートやトタンまであるが、どれも屋根を覆うだけの素材となっている。
建物本体の構造材も木による加工材として直線にして平滑、逆に自然木のようにその癖や拳を生かした形で設置したりする唯一芸術性に富んだ床の間が時には見られる。
日本の宮大工西岡常一氏が法隆寺を修復中に、日本建築史の竹島卓一先生とゼミで同行して一緒に宮大工の作業方法の話を身近に聞いたことがある。今その頃のことを想い出す度に、ガウディと重なる趣向性があることに気づかされる。まずは、軒先きのカーブは墨糸で描いてそれに沿って軒の反りを設定することや、柱の原木を同じような位置で生息しているものを採用するとか。中でも宮大工が利用する槍鉋など、現在の鉋との違い。槍鉋であれば削ぎながら削いでいる面を同時に押し込むように仕上げるために、繊維部分が立ち上がらず防水加工になってしまうという合理的な伝統工法であったことを聞かされた。職人たちの合理的な道具の使い方や仕上がりなどが、伝統職人でなければ理解されないのかということに気がついた想い出がある。
一方、ガウディの世界は民族、生活環境、素材も異なる。別世界で建物全体が一つの芸術作品として作られる様を、実測と作図作業をすることで、まるで歯ブラシで建物を磨くようにして観察させてもらった。するとガウディの計画していた詳細が手に取るように見えてくるのである。
つまり建物というのは単に人々の生活を保護するという機能だけではなく、そこには歴史、社会、民族性、さらに神話性なども演出することで建築というよりも、一つの芸術作品としてのコンセプトが計画されていることも理解できる。
しかもカタルニアには彼らの育んできたカタルニア民族、イベロ民族、ギリシャ民族、ローマを中心としたイタリア民族などが暮らし、総称して地中海民族とする。するとその特性が作品の中に託されていることが見えてくる。
それぞれの地域にはレジェンダがあり、そこには夢や希望そして倫理まで反映されている。それが建築作品のディテールになったりするのである。
これらの手法がガウディに限ったことではなく既に伝統的な建築様式の中にも演出されている。中でも私の好きな中世建築でもあるロマネスク様式というのは建築家たちによる計画と言うより、職人達によって巡礼地に点々と創り上げられた作品となっている。中でも柱頭などのレリーフや彫刻は、ファンタスティックでありながら当時の文盲の庶民達に、倫理も含めた経典アートとしての表現を演出しているとされている。 |