オリジナルを生み出すステップ
ガウディはステップについて“人間のステップは、高低に関係なく不可欠であり、常に知識、徳、力を向上させるためにステップを踏む。”としている。
例えば、テレビは絵を原点にしているのでオリジナルではない。
車も古代には馬車が既にあったわけだからそれも違う。
コンピューターもタイプライターと記憶装置の組み合わせにしかすぎないのでこれもオリジナルではない。
とすればオリジナルというのはどこにあるのだろうかということになる。
形がオリジナルであるためには、まずは発見に等しいほどの形で既存ではないものと言う定義が必要になるはずである。
そこで機能を変えることもオリジナルといえるようになるのだろうか。
例えば古代に作られた器を、その形で家に置き換えてしまうとそれはオリジナルといえることになる。
我々の衣類がいきなり建造物になるのもオリジナルである。
車が実はトイレだったりするかもしれない。
これらは従来の機能を変えたところにオリジナリティーがあるということである。
つまり最初の器も作られた時は木の葉っぱや枝であったはずである。それが粘土を練りだし形が生まれて乾かすことで堅くなり、木と同じような形となり、更に長持ちする器に変貌する。これもオリジナルといえるだろう。
とすればコンピューターもそのコンセプトは単に従来の道具の組み合わせという見方でしかないが、その道具を動かすプログラムがオリジナルとなって個々の部品をメモリー・チップや半導体などとして開発することができたのは科学の成果でありオリジナルといえるだろう。
それよりも、その時代に生きた人々の情報で想像できることも限られているだろうが、必要に応じて対応してきた人々の行為は今も昔も変わらない知識であると言えるだろう。
むしろその場の道具を最大限に利用した人々の業績が今にも伝えられているのである。
洞窟の壁画を見ても、岩の凸凹を利用して描かれているアルタミラの壁画は、巧妙な当時の人々の知恵の結集ということになる。
自然にできた洞窟の状態に合わせて、当時の動物の姿を描いているのである。
当時に絵の先生はいなかったはずである。それにも関わらず周囲の光景を絵にする行為は、まさにコンピューターが誕生する遙か以前に、既に3次元で絵を描き始めた人々の創造力の高さを示し、それは偉業と言えるだろう。
話しがオリジナル性で脱線してしまった。
単にガウディが言うオリジナル性と私が考えるオリジナル性のあり方を少し考えてみたのであって、本来の私の肉体労働のような研究には直接的な関係はない。
しかしオリジナル性を求める行為というのはあっても良いと思う。
私は1978年にバルセロナに戻るが、これが二度目となる。その後の1年半は無茶苦茶なスケジュールで、毎日寝ることも忘れて、と言えるほどに睡眠も不足で、実測と語学に専念した。当時はすでにカサ・バトリョとカサ・ミラの実測作図は殆ど終えていたが、無謀で不規則な生活が祟っての肋膜炎になってしまったのも自然の成り行きと反省している。
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