建築の背景にある神話、地中海文化と生活
ガウディ建築の中でもカサバトリョは 神話の建築概念をステージとしてみることができると思っている。つまり西欧における悪魔的なドラゴンの存在が、さらに恐怖的な興味を想起させるようなシーンにも見えるのかもしれない。
あえて芸術的な作品として物語を演出させる時、作家の意図は何か。それは単に恐怖の概念として化物の悪行を露出させることで、社会への戒めとする効果を暗示する、という作家の思いが込められているのではないか。
例えばロマネスク建築で見られる柱頭のレリーフなども妙な化物が表現されたりする。人間社会ではありえないような表現であったりする。今日ではUMAとか言うようだが、そのミュータント的な存在を表現することで、日常の社会とは違うという表現ではないだろうか。既述したように地中海民族は、化物を作りあげるメッカと言っても過言ではない。そのような気候風土を見出す穏やかな環境であるということである。
アートに満ちた地中海に存在するのは生活の余裕であり、そこに化物を作って人々にカルチャーショックを与えるのは、まるでエンターテーメント的な意味をもたせているのではないだろうか。
建築はクライアントがあってのことである。そこで先行するのは居心地と安全性の配慮である。その次に建築作品として考えた時、恐怖的な想像はタブーである。最上部には立体十字架や聖なる家族によって見守られたりするのが伝統である。むしろ日常である。沖縄でも屋根につけられるシーサーは災害からの守り神として祀られている。そのようにどこの民族においても同じような風習が昔らからある証でもある。
そこで、ガウディにも同じような習慣が備わっているとすると彼の一連の作品には共通するアイデンティティーが示される。初期の作品では建築作品が神話に庇護されて、人々の生活を楽しませるという趣向があったりする。それがサグラダ・ファミリア教会にまで継続されている。
ガウディは協力者との会話で「皆、自分達のものを教会で見られる。農民は牡、雌の鶏を見分け、科学者達は星座、神学者はイエスズの系図、しかし説明や理由はその構成によって理解し宣伝してはならない」。
としている。
つまり人々の生活に関わることが建築に演出されているのである。
このサグラダ・ファミリア教会も含めて地中海文化の演出とすれば、あまりにも大雑把な表現にもなるのだろうか。それほどに広義にわたる演出効果を一つの作品に集約しようと試みていたガウディの、芸術作品になっていると最近になって強く感じるようになった。逆に、48年前の頃は、とてつもなく複雑で理解するというより私の理解力ではすでにオーバーフローを起こしていたのだ。
ところが最近では、むしろ重複させようとする意図、つまり一つのテーマからいくつものヒストリーがありえる可能性をガウディ作品で示しているようにも見えるようになった。既述のメッセージはそんな要素を示唆している。
カサ・バトリョのような民間の作品にでさえその地中海文化を匂わせ、さらなる現代思考的な暗示を建築構造として、また演出として表現できる彼の想像力にはさらなる驚きを感じさせられる。
これを初めて見た時は、単なる装飾的として、しかも19世紀末のファッション的な建築であるとした理解程度であった。それは当時の関連書による紹介の仕方にも感染されてしまったのだろうか。ガウディ情報にかけていた時代でもあったのでそんな理解は当然のような気もしている。 |