シミュレーションから模型、建築へ
グエル公園の計画が1900年である。この時期からガウディの作風は顕著に変化する。同時期にコロニア・グエル計画も同時に進められ、しかもコロニア・グエル教会の建設も始まっていた。このコロニア・グエル計画では地域計画と同時に教会建築の計画を進めるが、それまでに存在しなかった建築形態の構造についてフニクラー実験というシミュレーションを進めていた。このグエルによる二つの計画は、ガウディにとって非常に重要な進展を成し遂げた時期でもあった。構造面では従来の伝統的な半円アーチから始まりカテナリー曲線アーチへと展開し、ついにフニクラー構造という実験をガウディが発明して建築構造に置き換える。それがサグラダ・ファミリア教会に移行されることで現在の形が見られるということになっている。
一方、グエル公園でははじめ田園都市計画として計画が進めらた。従って現場の地形を利用した公園にすることから、粘板岩の地盤を掘削しながら田園計画を進めることになった。同時に掘削して出てきた岩をさらに砕いて破砕にし、次に構築物の仕上げ材にするというリサイクルの方法を考案した。それだけではなく廃材のタイルまでも協力者たちによって近所から回収させ、それを再利用させるという手法もサステナビリティーの先駆として進められた。さらに興味あることはプレファブ工法を具体的にグエル公園で実施したのだ。そこにはリサイクルの手法も含めた。それはすでにグエル別邸でも実施された手法であった。ガウディの中では自然に取り入れられた方法であるということで、まさに伝統職人的な手法であることも洞察できるのだ。
ガウディの父は鋳掛業をしていた。銅板を熱してはハンマーで叩きながら鍋・釜を作ったり、ブドウ酒の蒸留機を作ったりもした。 つまり生活必需品が作れた職人であり産業革命以前から続いていた伝統的な創作仕事である。その作業方法をガウディは幼い頃から目にしていた。父の仕事がいつの間にか建築の世界でシミュレーションできるところまでガウディが成長したのだ。
そのことをガウディは「職人の子」として自負するようになった。
まさに職人的作業を建築の世界にも展開させ、作業方法や施工技術にも利用できるようになった。建築を計画するときは、模型だけで実施にまで至ることを身につけていたということだ。
私は今の建築技術でしか勉強していなかったことから、建築をするときには作図からが常識であった。ところがガウディの場合は、模型から建築へとより短距離で施工に入る術を心得ていたのだ。模型は粘土がベースになる。しかも形は自由に変化する。従って最終の原寸大の模型までも修正を続けて建築施工を進めていた。
民間建築の作品も、基本的にはガウディの建築工房でもあったサグラダ・ファミリア教会で作図も原寸模型も準備された。 そこのスタッフの中心人物がフランシスコ・ベレンゲールであった。他にホワン・ルビオそしてホセ・マリア・ジュジョールも後に協力はしていた。ジュジョールはグエル公園の施工において彩色タイルの構成を担当していた。彼のサインまでがこのグエル公園の多柱室の天井の破砕タイルの模様の中に見えている。一方ベレンゲールは構造を担当していたことから公園の高架のベクトル解析図を描き、それらの高架の構造を説明している。
ガウディの成熟期は、これらの三人の建築家たちが中心となって作品が計画されていたことが明らかである。そして彼らとの共同作業から生まれたのが成熟期の作品となって輝いているのだ。 |