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実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

悲劇の週間、板挟みのガウディ

どの世界でも争い事は起こる。家庭内でも起こるのだから仕方がない。
それほど動物達というのは我が儘に出来ていると言える。単純なのかもしれない。
度を過ぎなければそれも楽しい人生ではないだろうか。浮き沈みがあってはじめて人生に味を付ける。当事者にしてみれば大変な事であることは承知であり忍耐も必要である。
それもこれも“時間”という自然の力が大河の水のごとく解決してくれる。
“悲劇の週間”も人間達のエゴの衝突が原因と言ってもおかしくはない。
アフリカ戦争でのスペイン軍の大敗をきっかけに、市民は1909年7月26日から30日にかけてアフリカ戦争への抗議としてバルセロナの街に繰り出し荒れ狂う。
そして80軒以上の教区建築が放火され、街が反乱状態。左翼の政治家でもその動きを抑えることができず、最終的に軍隊発動で労働者地区を抱囲して鎮圧したという。
そして8月2日には既に2500人が逮捕され、その内1725人が軍事裁判にかけられ、59人は無期懲役となり17人が死刑を宣告された(実際には5人だけが処刑されたとなっている)。中には近代教育を主唱したフランセスク・ファレールが反乱の扇動者として処刑されているのである。
この事件も1893年11月7日のリセオ劇場の爆弾事件と類似する。というより資本家と労働者間にあったわだかまりを、その時代にも引きずっていたということになる。
既にこの頃(19世紀終盤)から資本家と労働者の関係が不和な状態にあり、アナーキーな動きが労働者を触発し、解放運動と教育の自由化運動が同時に進行したのだろう。

過激派の活動手段は既に犠牲者を出し社会問題となっていったのである。
その社会的状況がエスカレートして、悲劇の週間では労働者達が反乱を起こし軍隊と闘うまでに至る。その結果、犠牲者を代償として労働組合または労働省の発足につながったのである。
いみじくも労働者の立場がこの時点から見直されたと言える。

ガウディの生涯の中では、既にマタロの労働者組合計画でも労働者側の立場に立っていた。後に資本家達との交流から重要な仕事も請け負うようになっていた。その矢先に戦争を起因として、それまで抱えて込んでいた資本家と労働者との問題が一気に破裂してしまう衝突事件となった。よりによって宗教関係の焼き討ち事件が巻き込まれている当たりは、その頃の資本家階級と宗教との関わりの強さを物語っていると言える。

この悲劇の週間に合わせて資本家、宗教家そして労働者が衝突し、政府の武力行使でなんとか鎮圧したということになる。
その流れを見ていたガウディは、双方に直接関係する当事者として非常にいたたまれない気持ちであっただろう。しかも彼の関係していた教区や教会もその被害をうけるのである。中でもサグラダ・ファミリア教会での痛手は、世界的遺産の損失と言えるほどである。
グエル公園から当時バルセロナの街に立ち上がる黒い煙を見て何を感じたのか。
それが後の彼の建築家としての表現方法に反映されるというのも事実である。

   
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