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  建築家トップ > バルセロナ便り > 第68回
実測で見えたガウディデザイン バルセロナの陽光に魅せられて 最もガウディに近づいた建築家、田中裕也が綴る

ジュジョールの名が刻まれた
ガウディの作品

ガウディの最初の伝記を執筆したホセ・ラフォルスの本“ガウディ”(1929年)の中には、
ガウディはカサ・ミラの敷地に “この地区に因んだグラシアの聖母の小さな礼拝堂があった”と述べていた。
悲劇の週間で驚いた施主達は、この建物が修道院や教会と思われることを恐れ、ガウディに対して1909年8月に聖母や天使の彫刻群を撤去し十字架を目立たない様な場所に移動することを頼んだ。
ガウディはこの宗教的な事に絡む提案に対して反発し、工事から手を引いた。

と記されている。
一方で建築家ガウディとの会話を纏めた(ガウディとの会話、1969年)セサール・マルティネールは、
“テオドシオ(Teodosio)が建設したコンスタンチノープルのサンタ・ソフィアについて同じようなことが起こった。民衆騒動は1909年の事件とよく似ており、 コンスタンティノープルが焼ける。テオドシオはボスフォロ(Bsforo)から眺め、ガウディはそのころグエル公園の自宅からテオドシオと同じように事件の現場を眺めていた”
ということを想定している。
この事件で、テオドシオの足を止めたのは彼の妻の一言であった。それを知っていたにも関わらずガウディは施主との対立からサグラダ・ファミリア教会に閉じこもってしまったと言うのである。

その頃のカサ・ミラの姿は、バルコニーは未完、窓も取り付けられず、室内の天井も完成していなかった。しかもカサ・ミラの施主ペドロ・ミラ・イ・カンポの夫人ロサ・セヒモンは社会の動きにナーバスになっていてガウディの提案する聖母像に反対した。
話しの折り合いはつかずガウディは、サグラダ・ファミリア教会に閉じこもってしまうのでる。後に、ロサは、家の工事を中途にされたのでは困ることから、カサ・ミラ建設工事の完成を求めることになる。しかしガウディも頑固な人である。押し問答があったのかどうかは定かではないがその末、一度問題を起こした作品に彼自ら出向くようなことはせず、協力者ジュジョールを現場に当てる。
ここであらたな仕上げの部分が現れる。
その意味ではガウディというよりもジュジョール的な才覚を見せ始める場になる。

ガウディは作品の中に自分のサインは入れないが、ジュジョールは他人の作品であるにも関わらず自分のサインを入れることがある。それはグエル公園で確認できる。この場合見る人によってはガウディの作品ではなくジュジョールの作品と勘違いされそうでもある。
これをガウディは黙認していたのだろうか。
確かにガウディは協力者達にそれぞれの才能を充分発揮できるような場を与え、しかも既成概念で協力者を縛ることはなかったというが。
これもガウディの偉大さを示す由縁なのだろうか。

作品が完成した時点でガウディの作品と言えるのかどうかという問題もある。
しかし基本的にガウディがそのプロジェクトを受けて彼の名前で計画は進んでいたわけであるから、この作品もガウディの作品ということになる。

現在の作品からの作図作業で得た図面と研究室の資料も参考にしながら比較すると、他にもオリジナルとの違いを見つけることができた。
それは煙突の本数と階段室の形である。

   
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