なぜ松の木林の丘に教会を計画したのか?
ガウディは教会入口のポーチ上の階段を設置するに当たって、途中の松の木を避けるように計画をしている。その理由として「階段は3週間で造ることができるがこのような松の木を得るには20年は必要である」と言い残している。
そうとすればなぜ松の木林のある丘に教会を設置する計画にしたのだろうか?
ガウディの残した言葉からすれば自然を大切にしようとする意思が伺われるが、一方で教会を作る為にどれだけの松の木が犠牲になったことか。
しかも工業団地の為の「肺」の役目にもなる緑である。その中に住民が集まれる教会という理由で計画を進める上で、彼は何を考えたのだろうか。
松の木や自然と、より親密になろうという意図なのか、それとも逆さ吊り構造実験模型に示すような、カテナリー曲線を生かした構造改革として自然との対話を求めて、しかも周囲の木の幹にも同調するかのようなテクスチャーを表現して自然の一部に加えてもらおうという姿勢なのか。それとも技術を利用して自然に対峙しようとしたのか。まだまだいくらでも定義付けができる。
いずにしても作品を目の前にして感じるのは、自然形態や視覚的な類似テクスチャーを表現する事へのチャレンジと、そのシンプル性を強調しようとしたのだろうと仮定する。
そうしなければ話は前に進まない。
私がフィンカ・グエルの実測を終えた後、コロニア・グエル地下聖堂の実測を進めようと思ったのは、1つに自分の気持ちが落ち着く場所だからである。
特に内部に入ると音響効果、内部空間の環状に並ぶ柱、不思議な空間の包容力、そして所々から木漏れ日のようにして陽が差し込んでくるステンド・グラスによる適度な光。
そんな「空気」を、中央祭壇の壇に腰掛けて見回すのが私は好きである。
最初の頃は、この内部空間の詳細を測るにはどうしたら良いか、しばらくその姿勢で考えていた。
それが今では癖になってしまったのだろうか。
修辞学的にこの場を表現する前に、私の気持ちが落ち着ける場所と言う表現に相応しい。
私の頭の中には常にその空間の広さと明るさが焼き付いている。
これから私が落ち着ける場所を計画するときは、かなり似たような環境を演出する空間作りをするのかもしれない。
いずれにしろ私見は別にして、この教会の建築構造体が基本的にどうなっているのか、徐々に解き明かさなくてはならない。
構造的には煉瓦を使用しているが、上部の塔を支持する為に局部的に大きな荷重がかかる所は、玄武岩を採用している。というところまでは良いのだが、内部の柱群は、カテナリー曲線の傾きに沿って柱頭と基盤の間にある支柱はグニョリと曲がり、しかも一部はえぐり抜かれたようになっている。
石は堅いものというイメージがある。それをガウディは、石の中でもより堅くて重い玄武岩を利用して容赦なく捻り、えぐる事を考えたのだ。
素材の利用の仕方までも自然に同調するという事は、反逆的に、弛まない自然への抵抗と言う見方もできるだろう。
しかし、彼の自然に対する観察は並外れているのではないか。
建築では、自然界の表面的な植物模様が取り入れたりしてきたことは誰もが一度はどこかで目にしていることであるが。
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